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赤壁の戦い 80萬

1 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/26(日) 19:33:07
赤壁の戦いのとき、それぞれの兵力はどの位だったのだろう?

曹操勢力総兵力 赤壁投入兵力
劉備総兵力
孫権勢力総兵力 赤壁投入兵力
馬超・張魯の勢力の兵力

どの位?

2 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/26(日) 20:07:19
なんだよ、赤壁の叩き合いはしょぼかったとかって400レスも付いてんのに
だれも兵力語られないのかよ

しけてんなぁ

3 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/26(日) 23:05:15
しょぼいってわけじゃなくて赤壁ってターニングポイントになった戦いではあるんだけど
イマイチ概要がハッキリしないんだよね

劉備の戦力がおよそ2万前後ってのはほぼ確定的なんだけど
曹操の戦力が本当によくわからない

4 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/26(日) 23:06:35
いっそ80万っていうのはどう?

5 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/26(日) 23:07:00
>>3
江表伝に書いてるけどね
赤壁に直接参加した人数ではないが

6 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/26(日) 23:12:11
曹操勢力総兵力? 赤壁投入兵力15万+7万
劉備総兵力2万
孫権勢力総兵力5万以上 赤壁投入兵力3万

こうしてみると劉表は孫権以上の勢力だったようだ

7 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/26(日) 23:16:53
>>6
曹操が連れてきた15万も荊州兵の7万も、赤壁に全部連れてきてるとは書いてないんじゃないかなあ
まあ、大部分は連れてきてると考えていいんだとは思うけど

8 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/26(日) 23:23:24
15万と7万を前線に送るには輸送がマンパワー頼りのこの時代だとほぼ同数の人数が必要と考えるとして

まあ戦場まで送れたのは精々7万ってところじゃないかね

9 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/26(日) 23:26:56
>>8
船じゃね?

10 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/26(日) 23:32:14
>>8
船による輸送と言っても限界はあるよ
兵站線の維持にだって人員は必要だし

11 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/26(日) 23:48:53
諸葛亮伝の孫権の台詞で呉には10万の兵がいると言っている。
大見得だったとしても8万くらいいたんじゃない?

それで呉の総兵力を仮に8万として
呉臣の大多数が怖れて降伏を考える魏の総兵力とはどれくらいだろう?
数十万とあるけれど。

12 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/26(日) 23:51:58
>>11
内1万2万は常に山越用に残してないといけないし
徐州方向からの南下に備える必要もある

実際に動かせるのはその半分から6万くらいじゃないかな
それだって輸送要員を考えると精々実働2,3万とかでしょ

13 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/26(日) 23:57:28
>>12
輸送を兵士がやるとは限らないのでは?
軍商とかいなかったのかな?

14 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/26(日) 23:58:57
本当にその「輸送要員半分理論」は妥当なのか?

15 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 00:01:44
農民駆り出したりしないの?

16 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 00:09:02
普通言われる動員数は、兵役で「農民を狩り出し」た総動員数だね

17 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 00:09:18
そもそも史書に載ってるのが輸送要員を換算した数値かという問題も

18 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 00:11:19
>>16
当時は大体農民を狩り出したんじゃなく、豪族がもともと持ってた兵やら流民を兵士に仕立て上げた兵が多いぞ
兵役真面目にやってる兵は多分少数派

19 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 00:17:18
諸葛亮の北伐のうち大きなものが十万余
袁紹の南下が十万
孫権の数度の合肥攻めが十万から十五万
曹丕の東征が十万余。

赤壁の16、7万という魯粛の見立ては、総動員数としてもかなり多いな。
江表伝が水増ししてないか?

20 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 00:17:29
ここは数字を検討するスレだからそれ意外なスレチだぞ。

21 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 00:19:40
>>18
それが常備兵。
大規模な遠征をするときは更に戸籍から動員を掛ける。
兵站や主力ではない部隊の数揃えに使っただろう。

22 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 00:20:14
>>19
曹丕の時期に比べると他戦線への圧力も弱いから、集約できるというのはあると思われ。

23 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 00:53:56
>>5
江表伝は全体的に偏向過ぎてあてにならない

24 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 18:27:52
輜重に兵を半数も割いたりしないんじゃない?
ソースあるの?



25 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 22:24:50
前漢代に関東から長安へ穀物を水運したんだけど、
約二十万人分の一年間の食い扶持を運ぶのに六万人を用いたんだって

陸路と水路の利便性の比較を論じた話は良い資料がどこかにあった気がするけど思い出せないので
後魏の涼州へ輸送した例から計算すると、陸水で手間は7:1になる。

とすると、仮に半年分の輜重を「関東から長安へ」陸路輸送したとなると、ちょうど兵卒:運手の比率が約1:1となる。
勿論、船舶の方が単位辺りに必要な人手はずっと少ない一方で、
関東の広大な穀倉地帯から長安へ運ぶという手間は単純な兵站線よりずっと複雑だったはずだし、
河川がまったく使えない兵站線は考えづらいし、現地調達という要素もある。
備蓄地から前線までの距離で必要な労力は大きく変わる。
これは適当もいいところな計算だが、長距離遠征において食い物を運ぶ手間というのは
こういう規模で必要になると考えればいいと思う。
だからこそ孫武は「智将は努めて敵に食む」と言ったわけだ。

26 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 22:56:05
ここで劉備の住民連れ去り逃避行がジワリジワリと曹操を追い詰めてたのがよくわかるな
襄陽〜江陵(手前)〜江夏までのルートは曹操の前に劉備が通って有用な物資がロクになかっただろう
江陵を強引に強行軍で奪わざるを得なかった曹操の苦悩がよくわかる

27 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 23:01:29
一つの焦土戦略だね

28 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 23:07:30
軍は兵站線をかなり気にする。
半年分も携行しているのならそれ程気にしないのではないだろうか?
はっきりとしたことは言えないが1ヵ月分くらしか通常携行しないのではないかと思う。
留守組が兵站を受け持って後方支援という形で随時送っているのだと思うのだが。

また、兵の半数が輜重だとすると
陣営を築いたのち、そこに物資を運び込んでからは何をするのだろう?
ただ寝てる(戦闘不参加)とは思えない。

29 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 23:07:59
>>26
先主伝を読む限り自発的に曹操から逃げ出すために住民が同行してる
これはやはり民まで殺戮略奪する曹操の悪名が響いたからだろう
自業自得と言わざるを得ない

30 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 23:10:47
>>26
曹操に追いつかれたとき民衆・物資共に捕まったと思うよ

31 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 23:13:22
>>25
曹操がキ州を取った時の会話に
『戸籍を調べてみたら、三十万の軍勢を手に入れることが出来る』と言って
崔炎に『九州がことごとく乱れて民が疲弊しているのに、民を慰撫もせずに、先ずは戦の算段かよ』って怒られているんだけど・・・

実際にキ州を本拠にしていた袁紹は、距離的にはキ州に近い官渡にどれだけの兵を動かせたんだろう?
実働部隊で十万ってところ?

兵站を考えれば、キ州規模の州を完全に統制しても、荊州にまで動員できる兵数はその半分の5万ぐらいになるのかな?
でも、関東から長安への輸送って、山間の隘路を行かないといけないから、手間としては許昌から荊州南部への輸送と同じぐらいなんだろうか・・・

32 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 23:22:59
>>29
>これはやはり民まで殺戮略奪する曹操の悪名が響いたからだろう

・・・まぁ、青州兵に限って言えば、その評価は正しいんだろうけど。

33 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 23:49:03
>>30
関羽を船で別働させたのがここで効いてる
住民の一部を関羽の船に乗せてるから曹操は民衆・物資をちゃんと鹵獲できてない可能性がある
特にこの時関羽の船団は1万を優に超える大船団

34 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 23:51:18
>>33
襄陽に立て篭もった劉jを尻目に、漢水に浮かんでる船を根こそぎにしていったんだろうな
曹操は漢水を下って兵と物資を送ることが困難になったわけだ

35 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/27(月) 23:56:29
>>28
当然ながら帰る。
輜重兵も兵糧を消耗するんだよ。ろくに訓練も受けていないだろう軽装の徴用兵を置いていても無駄。
随時小まめに送ったのではないようだ。官渡の曹操・袁紹両者の逸話や
襄樊攻めで兵糧を送らされた麋芳の逸話からすると。
少なくとも備蓄一ヶ月ラインをキープというのは有り得ないので、最初にドカンと大量に送る必要がある。
さらに、最初の「20万人分を6万人で」は民事のこと。道々の輸送者は輸送物に手をつけないだろう。
寝食を提供する宿場町のようなものが河水・渭水沿いに形成されたはず。
軍事、特に安定支配地域外への遠征ではそんな供給を外から得るのは殆ど不可能なので
自分の食い扶持も自分で運ばなければならない。
さらに牛車の牛や、軍馬の秣、道々の守備隊の兵糧が加わる。
占領地から挑発するには治安維持のためにやはり軍兵をおく必要がある。
前線に付いたらついたで備蓄値の警備兵が必要になる。
李衛公問対によると、二万人の軍のうち戦兵は一万四千で、残り六千人を輜重守備にすべし、とある。
あれやこれやの人員を全てひっくるめて作戦に使用される数字が動員数>>19だろう。

軍事というのは、前線の将兵という小さな鋭い一点を支える莫大な経済活動によって成り立っているんだよ。

36 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 00:07:32
>>35
李衛公問対は唐代以降の兵書だから輸送技術についても大分三国時代より改善されてて7:3だろ
三国時代だともう少しその比率は輸送用人員数が増すと思う

37 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 00:08:25
>>34
劉jは結構ギリギリまで抗戦派だったので案外劉備の逃避行を黙認してた可能性もある

38 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 00:15:44
>>36
いや6千というのは前線の輜重守備兵。二万人を七軍に分けて、その七軍それぞれに守備部隊を用意せよとある。
輸送人員は別枠。

39 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 00:19:28
>>38
ああ、輸送人員じゃなくて守備人員なのか
これは失敬

ただ輸送は下手に人員増やすと盗み食いも増えるから大変だよなぁ
一番優れた奴に輸送やらせろってのは本当に切実なところからの実体験なんだろう

40 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 00:23:52
>>37
ってことは、曹操は対孫呉の最前線以外にも、荊州の安定に睨みを効かせる軍勢が必要ってことだよなぁ。
後背の憂いを常に抱えている状態だったってことか。

41 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 00:28:19
>>40
実際劉ソウに対して王威の建策があったし、それを抜きにしても曹操にしてみれば張繍降伏の時みたいにいつ逆噴射するか、ってのは付きまとう
だからこそカクが言ったここらで腰を落ち着けろ、って案が説得力を持つ

42 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 00:34:28
>>40
だからこそ、早々に劉jを青州刺史にして飛ばしたんでないかな
旧臣達を軒並み侯に封じているし。
楽進が襄陽守備。張遼・于禁・朱霊は南陽郡から分割された章陵太守の趙儼に監督されて後方の押さえ。
曹仁は江陵。漢水以南の平定に参加した著名な将というと他に徐晃しかおらず、彼も赤壁に参加したかは不明。
新領土の統治というのは非常に労力を要するものだったとわかるね。

43 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 00:37:10
>>42
それなのに疲労した兵と不安のある兵站を抱えて長江を東進した曹操の判断には疑問符が付くな

44 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 00:45:28
>>43
個人的には、2つの理由を思いつくんだけどね。

一つ目は、孫子の言うところの『兵の勢い』というものを重視したのではないかという考察。

二つ目は、孫家を敵と見做して(表面上は)優勢のまま進軍する事で、逆に荊州の曹操に対する不満のはけ口にしたと言う考察。
その余勢でもって戦わずして政略で勝とうとしていたのに、跳ねつけられたのでは無いかと。

・・・元々、戦端を開いちゃったら勢いで速攻で勝つか、規模に見合ったところまで戦線を縮小するかしか選択肢は無かったんだよね。

45 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 00:51:09
>>43
ぶっちゃけると、赤壁の遭遇時に曹操が孫権との対決をどう考えていたかは判らないんだよね。
襄陽と江夏(夏口)の船舶が劉備に抑えられたとするなら、荊州水軍の残余は江陵にしか存在しない。
江陵水軍を夏口まで進め、江水と漢水の連絡を確保する、というようなことは曹操にとって優先順位の高い行動だっただろう。
周瑜が「自分を夏口まで派遣してください」と言ってるのもこの戦略的重要性のためだと思う。

恐らく確かなのは、赤壁の遭遇戦は曹操の望まない会戦だったこと。
孫権を刺激してしまったのが確かに失敗なのだが、散々に打ち破ったはずの劉備が
一、二ヶ月で孫権と同盟を結んで長江を荊州内部まで逆進してくるなんて、
普通読めない。おそらく参謀団の誰も読めなかっただろう。
これは劉孫同盟とその立役者達の会心の勝利という他はないと思う。

46 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 01:04:43
>>45
>一、二ヶ月で孫権と同盟を結んで長江を荊州内部まで逆進してくるなんて、
普通読めない。

テイイクは具体的な展開までは読んではいなかったかもしれんが劉備と孫権の同盟を危険視していた
参謀団にはちゃんと読んでいた者もいたということ
これを取り上げられなかったのだから、「普通読めない」ではなく、「テイイクの進言を軽視してしまった」と言うべきだろう

47 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 01:14:21
>>46
同盟、というか劉備が孫権に救援を求める可能性は当然考慮していただろう。
でも赤壁で遭遇する速度で夏口から西進、というのは普通有り得ないよ。
当陽で敗北した直後に魯粛が到着して外交権を行使しなければ成立しない話なんだから。

武帝紀の記述の劉備討伐に東進した、というのを信じるならば、
むしろ曹操は、劉備と孫権が軍を合わせる前に夏口を抑える、
さらに言えば夏口付近に滞留していただろう劉g水軍と劉備を、
孫権の前に各個撃破するのを狙っていたという推測が出来る。
であればこそ、強行軍をやる意味が出てくる。
孫権だけが敵なら、疲労を回復する時間くらいとって良かったはずだから。

48 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 01:24:46
長坂の強烈な成功体験に目が眩んだか?

でも曹操からすると成功なんだけど、劉備から見てもある程度の成功なんだよなぁ

49 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 01:32:20
曹操の軍歴にとっては成功体験、なんていうほど大した戦いではないはずだけど。
劉備を過去何度も破ってるし、曹操は当陽の戦場にいなかったはずだし。

ただ今までの劉備なら、敗れた後は守りを固めるか尻尾巻いて揚州へ逃げるのが
せいぜいだったはずなので、侮ってしまったというのはあるのかもしれない。
25、6歳の若造でしかなかった孫権の決断力もね。
樊城放棄から漢中奪取までの時機の劉備はまさに神がかってる。

50 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 01:50:58
>>49
長坂へは曹操も曹純を伴って劉備に突貫してるよ

51 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 01:58:32
>>35
>当然ながら帰る。
そうだろね。そういうつもりで言った。またやって来るのは何ヶ月後?
敵が後退し戦線が進んだとき、物資を運ぶために都から大量の輸送兵を呼ぶの? 
おかしくない?

>随時小まめに送ったのではないようだ。官渡の曹操・袁紹両者の逸話や
>襄樊攻めで兵糧を送らされた麋芳の逸話からすると。
これを読み返しても、自説>>28のように思えるんだけど。

52 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 02:01:56
>>47
孫権は曹操が来る前から江夏近くまで出張ってるから、孫権に進路阻まれるだけで立ち往生する進軍は元々かなりのバクチだったと思う
外交権うんぬんとかを別にしてもね

ただ曹操はこれまでも「孫策は暗殺されるから放置して北へ進軍しておk」みたいなバクチをやってるから、今回も「劉備が孫権と同盟しようとしても間に合わないからおk」って判断してやっちゃったんだろう
成功体験に目が眩んだと言われても仕方ない

53 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 02:10:22
>>33
別働隊の船は数百艘。何隻か分からないけど千を超すことはないよね。
仮に千艘に平均50人を乗せたとしても5万人。

千艘もないと思うし、平均50人ものらないと思う。
劉備が連れて行った民衆は5万人を大幅に下回ると思う。

54 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 02:12:53
>>53
確保した民衆はな

だが別に曹操が民衆をちゃんと逮捕して物資を鹵獲できたかは全く別っていうか無理
特攻かけた曹操の兵数は僅か5000だから本当にただ劉備を追い散らすだけしか出来ない

55 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 02:20:05
>>54
羊の群れと牧羊犬の比率は?

56 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 02:24:10
>>55
情勢を見て移動するのは「民衆」とは言うものの知識階級の連中だよ
そこまでぬるいなら最初から逃走するかね?

57 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 02:29:09
>>55
知識階級じゃないだろう。大多数が農民とか町民だろ。
曹操は恐ろしいと噂で聞いてたから逃げたんじゃないかな。

58 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 02:37:42
>>57
それだと「荊州人」じゃなくて「民」とかって書くよ
中国では「人」と「民」は結構区別されて使われてる

59 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 03:15:20
>>58
「民衆」って自分で言ってるじゃん

60 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 03:19:27
>>59
ああ「荊州人」ってのは原文の話だから
>「民衆」とは言うものの
のは一般的な現代日本語の民衆

原文ではって>>58に書けばよかったね
ごめん

61 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 03:42:00
>>60
武帝紀
194年 陳宮の叛乱の辺り
イナゴが発生して百姓が餓えた。(状況説明)

穀物の値段が跳ね上がり、「人々は互いの肉を食らい合った」。

原文で「人相食」になってるんだけど、
知識階級の連中が食いあったのかな?

たぶん筆者に「民」と「人」の拘りはないと思うよ。

62 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 05:00:10
>>61
百姓って農民とかじゃなくて「全ての人が」って意味だから
人相食むはちゃんと区別してる範疇にある

63 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 10:53:42
>>61
中国史の基礎知識。
「百姓」は「ひゃくせい」と読み、あらゆる人がという使い方をする。


ただ、人と民の区別を漢代以降厳密にしているかというと俺は疑問だな。
光武帝は奴婢の待遇を改善するにあたり「天地之性、人為貴」といい、
また、奴婢を解放する文言として「一切を免じて庶人と為す」といっている。
後者は明確に一般民衆を「人」という文字で表してるね。
そして、「彼も我々と同じ人だ」と言って奴婢たちを区別せず庇った劉寛という高級官僚が後漢にいた。
「民」の語源が一種の奴隷だとすると、中央では「民」を「人」として扱っていることになる。

ちなみに漢代以降厳密に扱われなくなったものは他にもあって、氏と姓の区別なんかもそうだな。

64 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 12:29:14
>>63
意識してるからそこで人を使うんでしょ
民じゃなくて人だから大事にせーよって

少なくとも支配者階級に「民」は使わないし
「荊州人」と書かれてた場合は少し気を締めないといけない
もしその荊州の人たちが民だったら荊州民かそれに類する事を書くよ

65 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 13:05:26
>>64
いや、この場合どれも「奴婢」と「人」は意識して区別し、それを乗り越える意図があるが、
どちらも奴婢でない「民」は無条件に「人」として扱っている。

66 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 13:19:40
>>65
だからどうした
三国志の書き方についての問題だから光武帝の文章なんざ追ったって意味ねぇだろ

67 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 19:11:16
>>52
孫権は単独では進路を阻めない。
今までと同じように孫権軍が江夏へ至るというのは、即ち劉g軍と開戦に及ぶ事態を意味する。
15年に渡る宿敵同士だからね。
孫権軍が赤壁まで到達するには、旧劉表軍との同盟を結んで確かな信頼関係を得、
兵站他を共有する段取りなど軍事計画を詰める人間がいなければならない。劉氏側でその役割を担ったのが諸葛亮。
荊州に入れるのはそれからだ。でなければ夏口を通れないし、合流と共同進撃がスムーズに運ばない。
曹操の東進が「劉氏軍の先行撃破」にあったという想像が正しいとするなら、
普通に考えれば、曹操の判断は相当分の良い賭けと見えただろう。
軍事が賭けの要素を持つのは当たり前だけだどね。

ついでながら、郭嘉の「予言」は創作か、事実だとしても気休めが当たっただけだろう。
現には孫策は許を目指してはいないし、仮に孫策が揚州を席巻し豫州を伺う危険があるとしても
曹操は袁紹の相手だけで勝算極小なのだから、後方に長期戦力を割く余裕はなかった。
孫策が死のうが死ぬまいが陳登や劉馥に任せるしかない。
要は「後ろは気にすんな。前だけ見てろ」ってことだね。

68 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 19:48:54
>>67
・・・なんだか、その文章読んでいると魯粛の凄さが際立つな。
撤退を繰り返してたどり着いたところに颯爽と同盟に現れた救いの天使!!って感じで。

69 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 19:51:31
>>62-63
>>61なんだけど、上3行はどうでもいい。
「武帝紀に『人相食』とある」
じゃ、確認が大変だろうから辿り着きやすいように状況説明しただけ。

原文に「人相食」とあるんだが
「知識階級の連中が食い合った」の意味かな?
と問いかけた。
「人」が知識階級の連中(だけ)を指すのなら
もっと貧しいもっと沢山の人たちは何を食べたんだ?
(もちろん質問じゃない。答えは決まっている。)

70 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 20:03:41
>>69
上下関係なく多くの人間が食い合ったって事だよ
「人」込みの集合は「人」だし「民」が多いなら「民」

つまり「荊州人」ってのもただの民じゃなくて知識階層の流出が多かったってことだ

71 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 20:24:36
>>70
荊州当陽以北に知識階級が数十万もいると思ってんの?
国の本が知識階級の人間か?ありえん。国の本は民だ。



72 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 20:36:15
非生産階級が数十万人も押し寄せたらどうなると思う?

73 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 20:38:14
>>72
李氏朝鮮末期状態

74 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 20:43:15
>>68
孫権と劉備を同盟させたのは諸葛亮だよ。

75 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 20:52:16
>>74
劉備『孔明、僕、もう疲れたよ』
魯粛『お迎えに参上いたしました』・・・・じゃなかったっけ?

魯粛と諸葛亮が、両勢力の所謂特命全権大使だよね。

76 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 20:58:17
兵站の問題だが

牛車が1台当たり、20人の30日分の食料を積めると仮定すると、
10万の戦闘員兵(糧運搬以外のその他含む)が
30日の行軍距離で
30日分の兵糧を維持し続けるには
兵糧輸送に1万2500人の人員と同数の牛が必要。(概算)

77 :76:2009/04/28(火) 21:01:20
>10万の戦闘員兵(糧運搬以外のその他含む)

「( 」ミス。

10万の戦闘員(兵糧運搬以外のその他含む)

に訂正。

78 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 21:36:53
全然、半数とかじゃないね。

79 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 21:39:43
>>70は、
漫画のイメージのような「寄る辺もない貧農が食うに困りながら必死に人徳ある劉備に付いていった」
のではなく、「知識階層(士人)に主導される部曲・豪農集団が情勢を勘案して劉備陣営を仰ぐ旗とした」
と主張しているのだろ。

だから、その立場上もあって当陽で蹴散らされてもそう簡単に曹操に捕まったりはしない。
それぞれ独自の判断で逃れただろうと。

賛成できる点
確かに、情報に疎い貧農や貧しい町人が政治情勢を鑑みて自発的に故郷を捨てるとは考え難い。
災害ならともかく。豪族が囲い込んでいたというこの時代ならなおさらだ。
この移動も後漢末の他の人口移動と同じく、政治情勢を知る士人層に主導されるものだと考えてよいだろう

疑問点
しかし、当陽の敗北で離散し、曹操から逃れたのなら、以後の劉備陣営の高官に
「襄陽を捨てたときに行動を共にした」という人物がほぼ諸葛亮しかいないのは不自然。
あくまで劉備派を維持すれば諸葛亮のような出世をするチャンスだったはず。
しかし蜀漢の他の荊州人が劉備陣営として活躍するのは、多くが劉備の荊州牧自号の後。

数万という集団は何しろ漢水も江水も渡れないので、やむを得ず曹操に帰服する以外にないだろう。
或いは、山野に隠れた集団もあっただろうので、即座に戦力化できたとは限らないけど。

80 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 21:52:50
>>79
豪農は土地を捨てないんじゃない?
それに私兵も抱えているだろうし、劉備軍と併せて数万の軍勢となったはず。
それが軽騎5千に手も足も出ないというのは変。

81 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:02:48
>>80
場合によっては捨てたみたいだよ
劉備が荊州牧を名乗ってからは襄陽近辺の住民が挙って劉備についたので土地が足りなくなったとか
曹操が淮南から強制移住させようとしたら逆に孫権に付いてしまったとか。

ただ、この赤壁前の時期の荊州人に、曹操を捨てて劉備に付く理由というのが
そんなにあるのか? といわれるとちょっと決定打がないかもしれない。

82 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:04:18
「人」に拘るからそうなるのであって
「人」を人々(人間たち)と思えば何も不都合は起きない。

83 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:06:28
>>82
「人々」を一般民衆というのなら、「水飲み百姓」達にこそ劉備についていく政治的な理由も自由も存在しないと思うが。
別に原文での「民」と「人」の区別には拘っていないし参加もしてないけど

84 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:07:01
>>1

曹操勢力総兵力 80万  赤壁投入兵力 20万
劉備総兵力   1万数千  赤壁投入兵力  1万
孫権勢力総兵力 10万  赤壁投入兵力   2万

85 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:07:56
>>83
虐殺されたくない

86 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:25:23
確かに徐州の時も陳氏など豪族は逃げ出してはいないな。
それこそ私兵を抱えて、要塞化していて自衛も出来るからだろう。

というか、知識人層が逃げるなら真っ先に逃げるべき連中が常に残っているような。

>>83
それこそ情報に疎いからというのは有りそうだが。
徐州の時の住民が逃げたのが荊州方面という話もあるし、
それしか聞いていなければ普通に考えれば残らないんじゃなかろうか。

87 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:26:13
>>85
だから、そんな政治情報が周知徹底される身分ではないはずだよ、貧農とか小作人とかいう身分は。
或いは、劉表が10年掛けた政治宣伝が功を奏してしまったのかもしれないけど。
それこそ自分で耕している畑を捨て豪族の傘下から離脱してまで土地を離れるかな?
いずれにしても、

劉jの左右(側近)及び荊州人は多く先主に帰す.比到当陽に到るころには,衆十余万,輜重数千両,日行十余里

劉j側近からの離脱と並べて書くというのはなんらかの政治的意図を持った集団であったろうし、
荷物を車両で運ぶのは相応の財産を持っているということだろう。
で、十万の民から抽出できる武装兵は良くて一万というところだろう。男手がいても装備と訓度に問題がある。
まあ十余万に誇張もあるだろうけど。
精鋭の騎兵5000になんの陣営も構えず野戦できる技術は当時の歩兵にはないはず。陣を構えても民を守れないし。

88 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:30:13
ジュンイクは李カクらが略奪に来ると知ると宗族を引き連れて故郷を逃げ出した
当時の豪族にとって曹操が李カクのような略奪や殺戮をする奴と思われていれば豪族だって逃げるだろう

89 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:33:04
「国の本」はどう解釈するわけ?

90 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:36:22
豪族=農民 だよ。例外なく。耕地と人を持っている人間のことだから。
で、この時代の豪族は大体において、士人かそれに近い立場にいる。

91 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:37:53
>>87
周知徹底されなくとも、ある程度のことは知られていておかしくはない。
今の日本みたいに、知らん奴とはほとんど話さないなんてのは歴史的にみて極めてあり得ない態度だし、
人の流れが存在する以上、大まかな動きは伝わっていておかしくはないと思う。
客観的でない情報がどんどん伝わるから、流言も意味を為す。
電話がないから話す相手は選べないし、今ほど管理されても便利でもないから、
いろんな人と話す必要があるんだ。
農民だって徴税吏や亭長なんかとはよく話すだろうし、
種もみや家畜の取引で商人と話すことはよくあったはず。
そしてこの時期商人は法律上ほとんど定住できないんだ。

ぶっちゃけるとデコイとして民衆を利用できるから劉備が情報を流させたということもありそうではある。

92 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:41:50
>>91
まあ劉表なり劉備なりが民を扇動するために情報を流したにしても、曹操自身も「曹操ならやりそう」と思われるような評判だったんだろう
その相乗効果なんじゃないかね

93 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:44:43
そろそろ本題に入らないか?

94 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:45:18
>>91
うん、あるかもね。
でも「曹操ヤベエ」という風潮が出来ていたのなら、豪族も逃げる。
「残る豪族」と「劉備に懐いた貧民達」という分裂、という方が、論証が必要な特殊な事態だと思うんだが。

95 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:49:03
>>94
個人的なイメージでは、『劉備についていった人たち=赤に染まった学生』と同じようなイメージなんだよね。

新進気鋭を気取った奴と、それに踊らされた情報弱者がアジ演説で劉備に追走・・・って感じで。

96 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:50:37
曹公大獲其人眾輜重

97 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:53:57
>>94
そら逆でそ。
劉備についていったのは知識人層で、純然たる民はついていく理由がないみたいな流れだったから、
純然たる民がついていった可能性について論じてるわけで。

98 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 22:58:18
>>95
アカというよりはこの場合保守だがな>劉備

99 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 23:02:03
そろそろ本題に入らないか?

100 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 23:02:31
>>98
立場的には、曹操の方が漢の丞相なんだから官軍になるんだよね?
劉備の方がイレギュラーズじゃない?

101 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 23:02:46
>>97
…そうだったっけ?
じゃあ俺としては、豪族≒士人=知識層 と見なしているから、どっちの意見もいいんじゃね? とか言っちゃうけど。

102 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 23:05:16
>>100
曹操が官軍ってことは、もちろん夏侯惇らも官軍ってことだよね?
劉備らは賊軍。

103 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 23:16:54
>>100
官側が革新で、反政府が保守なんてのは歴史上うんざりするくらいよくあることだよ。

戦前の共産主義被れの近衛を右たぁ言わんだろうし。
陸海の青年将校どもを左と…
あれは若干左気味な所もあるから厄介だな…
留保つきながらも最終的に目指した社会像を週刊金曜日に称賛されてたりするし…
まぁ、とりあえずは左とは言わないでしょ。

104 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/28(火) 23:19:17
まあとはいえ、劉備が保守というのも非常に違和感がある話だがw
漢室の末裔というのを初めて方便に使った記録が残るのはちょうどこの頃だね

105 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/29(水) 01:19:22
>>79
劉備の荊州牧になる以前は劉備に新しい人たちを組み入れる陣営の余裕がないからしょうがない
諸葛亮はなんだかんだで赤壁前後には既に劉備陣営で全権大使になれるほど軍閥の中枢に食い込んでるから
出世のチャンス云々って話はちょっと不適当ではないかな
どのタイミングかはわからないけど劉備は荊州に入って結構すぐに諸葛亮と接触し始めてるようだ

106 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/29(水) 01:28:33
>>105
諸葛亮一例しかないから比較が難しいが、当陽の敗北を経て一連の危機の時代にも
劉備に従い続けた士人がいたら、それはそれだけでも大きな功績になるはず。
襄陽時代の劉備と交流があった士人名士は少なくないのだから、
諸葛亮が仮にその筆頭格(そこまでではないだろうけど)だったとしても、
それに次ぐ形で、「荊州の難にあっても先主に従い続けた」と記される
荊州人士や荊州避難組がいていいはずだ。
でも蜀志にはまったくその記録がなく、逆に魏に仕えたり以後の消息が不明な名ばかりが残る。
その辺が「士人大量逃避成功説」の難点だと思う。

107 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/29(水) 01:31:29
ごめん、まったくないというのは嘘だね。伊籍がいる。

108 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/29(水) 02:12:50
>>107
ま、そういうわけで名前残ってないながらも劉備と一緒に逃走した士人はいるってことで

109 :無名武将@お腹せっぷく:2009/04/30(木) 00:55:32
そりゃいるだろ。

110 :無名武将@お腹せっぷく:2009/05/16(土) 01:23:03
あげ

111 :無名武将@お腹せっぷく:2009/05/16(土) 02:29:41
このスレイラネ。
結局数を検討できたのか?

112 :無名武将@お腹せっぷく:2009/05/16(土) 02:50:58
糞スレ

113 :無名武将@お腹せっぷく:2009/05/16(土) 09:01:38
ふつーに考えれば、住民は統治者に関係などないし、そのまま土地に居続ける
と考えてしまうところだけどな。

実際の所、スタンダードがどうで、特殊事情としてこのとき何があったのかなど、
わからないことだらけ。まあ、考えてみると日本で言えば記録すら残っていない
多分ほとんどが半裸全裸の刺青時代だもんねw
下手に記録が残ってるからわかるはずだと思い込むけど、実はわからない方が普
通なのかも。

俺的には、曹操の布告宣伝に対して明確に反曹操の意志を明確にした一部有力者
層が曲部を引き連れて逃げたということではないか。当然その家族も保護されて
一緒に逃亡する。それぐらいの事なら逆に史上いくらでもある。

114 :無名武将@お腹せっぷく:2009/05/16(土) 15:28:29
>>113
豪族達のことなら、困難な時代にあって支配者が
豪族達の既得権益を認めるかどうかというのは大きいと思うな。
この時代、大きな部曲を率いて帰順したものは尊重されたが、
一方でそれをどう支配体制に組み込むかが課題になっただろう。
襄陽からの避難組や淮南から孫権へ逃れた者達を、
曹操がどう扱おうとしたのか、どういう評判があったのか
それを検討していけば曹操の「苛政」の正体がわかるのかもしれない。

115 :1:2009/05/16(土) 21:05:41
本家スレで後継へ指名されてたが、本家スレとは微妙に趣旨がズレている。
もちろん誘導してたのは俺じゃない。

116 :無名武将@お腹せっぷく:2009/05/17(日) 01:05:40
本家スレって散々荒れて落ちちゃったじゃんw
あんな連中がこっち来たら迷惑だwww

117 :無名武将@お腹せっぷく:2009/05/17(日) 06:37:55
当時の庶民が情報弱者なんてのはあり得ない。
どんな統治者が次来るのかは、会社の上司と一緒で極めて重要な問題だから、
流言飛語じゃなくて正しく伝わっていく。勿論支配層も味方であろうが情報
統制はするが。庶民に情報を与えないようにするのも政治。

やれスマップだの新型インフルがどーのと家畜のように情報を与えられるだ
けで判断もできない豚は現代人だけだよ。

118 :無名武将@お腹せっぷく:2009/05/17(日) 09:32:19
>>114
既得権益は認めていたと思われる。
徐州の陳一族の既得権益を尊重していたり、官位から見て重用しているものの中には
漢の名族出身が数多くいる。

逆に民屯の例など、かなり流民等からは豪族が同レベルの搾取と兵役を課している。

こういう状況

曹氏政権 対豪族 一公九民 対流民 五公五民(戦時七公三民、八公二民の時も)
他政権(後漢健在時) 一律 一公九民

というか、屯田制ってのは基本的に政権が手酷い搾取をする豪族そのものになることで、
豪族の反乱に対抗する力を得る政策だから。
極めて現実主義的だけど民を省みるものではない。

119 :無名武将@お腹せっぷく:2009/05/17(日) 20:24:56
>>118
面白いな
どの辺からの研究?

120 :無名武将@お腹せっぷく:2009/05/17(日) 20:25:42
>>118
出典は何だろう
豪族と流民という分け方は面白いね

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